沈黙入門 小池龍之介 幻冬舎文庫

普段の人間関係で、嫌なことがあったり悪口を言われたりした時、どうにも自分の感情を処理できなくて困ることもよくあります。出来事を思い出しては落ち込んだ気持ちになって、他のことが手につかなくなるので時間を無駄にすることになる。

心の中の感情の動きについて、わかりやすく仏道の観点から明確に説明されています。小池さんの本を読むようになってから、心の中の動きを観察するということを意識するようになりました。もちろん、相変わらず怒ったり落ち込んだりしているのですが、「あ、今怒っているな、落ち込んでいるな」という、もう一人の自分がどこかにいる感じがします。そして、以前よりも感情の落ち込み具合や怒った時のストレスの度合いがなだらかになったと思います。グダグダになるようなことはなくなった。

これは、以前に感情が受けた刺激を潜在意識が覚えていて、似たような刺激を受けるたびに以前と同じ感情が沸き上がるからだということです。つまり、今起こった感情は以前と同じものだということです。何かに怒り狂ったときには、似た刺激をうけるとまた怒り狂う。ですので、負の感情はできるだけ持たない方が良いのです。

『非難を受けて傷つくことは、ゆっくりゆったりと、人の心を蝕み、暗い感情へと陥し入れます。たとえ一回のダメージは小さくても、自分でも意識しないうちに、ひそかに不快感が蓄積されてゆく。中略〜

深い潜在意識の奥底に蓄積し、見えないところでうごめくこの燃料のことを、「業」=「カルマ」と呼びます。ネガティヴな業として強力なのは、これまでにも度々出てきた貪欲(ヨクボー)と瞋恚(イヤイヤ)、それから愚痴(マヨイ)の三種類です。

何かについて「嫌だなー」という反応をすると、潜在意識の中に瞋恚(イヤイヤ)の業(カルマ)が増え、いろいろな物・事・人に・対して不快感を抱く反応パターンが、強化されます。』

日常で起こる出来事は、最終的には単なる情報に過ぎないということです。体の感覚器官が受け取る時、人の悪口は単なる音になり、見たくない場面はただの視覚からは入った映像になる。なんとも、究極的な考え方ですが理解はできます。そこに石が転がっているのを見るのも、殴り合いのケンカの場面を見るのと同じ。悪口もそれ自体に意味を取らなければただの音声になります。

もともと出来事自体に意味はなく、そこに色をつけるのは私達の感情を作り出す心です。しかし、そう頭では理解できても、実際に自分と出来事との間に利害が発生するとどうしても欲や怒りの感情がでてしまいます。ただ、仏道的観点からは人生はもともと無意味なんだという教えを知っていることは心の助けになります。なにかと不自由な現実に対して、最後のよりどころになりそうです。

『「非難」されて感じる不愉快さの原因は、どんなに複雑そうに思えても、元をただせば、音・文字・映像・皮膚感覚・といった単純な原材料によってできています。眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚装置から受信した情報を、六つめの感覚装置であるところの意識で、いろいろ加工しているだけです。

と同時にこの情報処理は、ほとんど誰もが、無意識のうちにやっていることなので気づきませんが、膨大なエネルギーを消費します。中略〜

五つの作用を同時にフル稼働させ、超高速の情報処理をしてまで不快感の目盛りを上げて怒る人は、心の仕組みがはらむスピードの奴隷です。』

「本当にあいつは嫌なヤツだ」「またこんなことしやがって」「そうか、さっきのことの腹いせか」「やり返してやる」なんてことを一瞬のうちに心は考える。ですので、こうした心の働きに対抗する手段として、今どう心が動いているのかを観察するということを勧めています。怒りや欲望などの感情が現れるのを押さえつけることは出来ません。しかし、感情を観察することで怒りや欲望に振り回されるということが少なくなります。